ハンス・ベーテ

ハンス・アルブレヒト・ベーテ(Hans Albrecht Bethe)(1906年7月2日 – 2005年3月6日)は、 ドイツ系アメリカ人の物理学者である。 彼は恒星がどのようにしてエネルギーを生み出すのかを説明し、 その業績によって1967年にノーベル物理学賞を受けた。
ニュートリノ物理学にとって、 彼は二重の意味で重要である。 彼は太陽ニュートリノを生み出す反応を記述した。 そして1934年、 ニュートリノをいつか見ることがいかにありそうにないかを計算した。
経歴
ベーテはストラスブールに生まれ、 1928年にミュンヘンでアルノルト・ゾンマーフェルト(Arnold Sommerfeld)のもとで学位を取得した。 1933年、 ユダヤ人の母をもつ息子であった彼はテュービンゲンの職を失い、 イギリスを経て1935年にニューヨーク州イサカのコーネル大学に移り、 70年にわたってこの大学と結びついていた。
第二次世界大戦中は、 ロスアラモスの理論部門を率いた。 戦後は数十年にわたって軍備管理に尽力し、 1963年の核実験禁止条約のもっとも力のある擁護者の一人であった。
「観測できない」
エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)がベータ崩壊の理論を提出した直後、 ベーテとルドルフ・パイエルス(Rudolf Peierls)は、 ニュートリノが物質とどれほど強く相互作用するかを計算した。 二人が得た断面積は10⁻⁴⁴ 平方センチメートルの桁であった。
彼らの結論はそっけないものであった。 ニュートリノを観測する実際に通れる道はない、 というのである。 この断面積をもつ粒子は、 数光年の厚さの鉛の塊をやすやすと通り抜ける。
計算は正しかった。 結論は正しくなかった。 それは、 きわめて強い線源ときわめて大きな検出器で何が達成できるかを過小評価していた。 フレデリック・ライネス(Frederick Reines)とクライド・カワン(Clyde Cowan)は、 1956年にそれを示してみせ、 二人の測定した頻度はベーテの数値と一致した。
ベーテはのちにこれを目に見えて楽しみながら評した。 この逸話は物理学のもっとも教訓に富むものの一つである。 正しい計算も、 そこから可能なことの限界を推論した途端に誤った主張となる。
恒星はどのように燃えるか
1938年と1939年、 ベーテはノーベル賞を受けることになる論文を提出した。 問いは古いものであった。 太陽はそのエネルギーをどこから得ているのか。 化学的な燃焼では数千年しかもたず、 自らの重力による収縮では数百万年しかもたない。 地質学は数十億年を要求していた。
ベーテは、 恒星が水素をヘリウムに融合する二つの道を記述した。
陽子・陽子連鎖。より軽い、 われわれの太陽のような恒星の道である。 4個の陽子が段階を追って1個のヘリウム原子核となり、 その際に陽電子とニュートリノが生じる。 最初の段階では陽子が中性子へ変わることが必要である。 これは弱い相互作用の過程であり、 それゆえきわめて遅く、 そのために太陽は爆発することなく数十億年にわたって燃え続ける。
CNOサイクル。より重い恒星の道である。 炭素、窒素、酸素が触媒として働き、 それ自身は消費されない。
遅れてきた確認
どちらの道もニュートリノを放出し、 しかも異なるエネルギーで放出する。 まさにそれが、 のちに両者を測定できるものにした。
ppニュートリノはBorexinoが2014年に検出した。 そして2020年、 同じ装置がCNOニュートリノの検出に成功した。 ベーテの二つ目の道であり、 彼の計算から81年後、 彼の死から15年後のことであった。
理論的な仕事で、 これほど長くその直接の確認を待たなければならなかったものは少ない。
その後の影響
ベーテは高齢に至るまで発表を続けた。 ジョン・バーコール(John Bahcall)とともに、 足りない太陽ニュートリノが新しい素粒子物理学を指し示しているのかという問いについて論文を著した。 二人ともその答えは「然り」だと考えており、 そして正しかった。
彼は2005年、 98歳で亡くなった。 レイモンド・デービス(Raymond Davis)が、 ベーテがその生成を計算したニュートリノの測定によってノーベル賞を受けてから、 3年後のことであった。
関連項目
出典
- H. Bethe, R. Peierls: The Neutrino, Nature 133, 532 (1934).
- H. A. Bethe: Energy Production in Stars, Physical Review 55, 434 (1939).