レイモンド・デービス・ジュニア
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レイモンド・デービス・ジュニア(Raymond Davis junior)(1914年10月14日 – 2006年5月31日)は、 アメリカ合衆国の化学者である。 彼は太陽からのニュートリノを最初に検出した。 そして誰にも説明できない結果を、 30年にわたって固く守り続けた。
2002年、 彼はその業績によって88歳でノーベル物理学賞を受けた。
物理学者たちの中の化学者
デービスは化学を学び、 1942年にイェール大学で物理化学の学位を取得した。 兵役ののち、 1948年にブルックヘブン国立研究所に来て、 そこで課題を探した。
彼が物理学者ではなかったことは、 この物語にとって些細なことではない。 彼が自らに課した課題は、 物理学者の間では見込みのないものとされていた。 化学者にとってそれは難しい分離の課題であった。 そして分離の課題は解けるものである。
すべてが始まった数
ジョン・バーコール(John Bahcall)は、 太陽がどれだけのニュートリノを供給するかを計算した。 そこから、 パークロロエチレンを満たしたタンクの中で生じるアルゴン原子の数が導かれた。 およそ2日に1個である。
2日に1個の原子が、 615 トンの液体の中、 およそ10³⁰個のほかの原子の中にある。 専門家の多くは、 これほど少ない原子を取り出し、 しかも1個も失っていないと確信することは不可能だと考えていた。
装置についてはHomestake実験のページが詳しく記述している。
違いを生んだ入念さ
デービスを際立たせていたのは着想ではなく、 検証であった。
彼は既知のごくわずかな量のアルゴンをタンクに入れ、 再び取り出した。 回収率は90 パーセントを超えていた。 これによって、 彼の方法が実際にほとんどすべての原子を見つけ出すことが裏づけられた。
彼は、 自分のタンクが太陽ニュートリノ以外の何かに反応しないかを検証した。 とりわけ彼は装置を原子炉のそばに置き、 そこでは予想どおり何も見つけなかった。 原子炉は反ニュートリノを放ち、 反ニュートリノは用いられた核反応を引き起こすことができないからである。
そして彼は数十年にわたって測定を繰り返した。 一回ごとに2か月ずつの測定を重ねたのである。
誰も望まなかった結果
1968年以降、 数値が得られるようになった。 デービスが見いだしたのは、 バーコールの計算した頻度のおよそ3分の1であった。
すぐに思いつく説明はこうであった。 バーコールの計算が誤っているか、 デービスの測定が誤っているか、である。 二人とも数十年にわたって検証を重ね、 二人とも誤りを見つけなかった。
それは楽な年月ではなかった。 その結果を誰もが誤りだと考えている実験は、 耐えがたい立場である。 まして、 それが変わるまでに数十年かかるとなればなおさらである。
遅れてきた確認
2002年、 Sudbury Neutrino Observatoryは、 足りないニュートリノが消えたのではなく、 ただ変換されていただけであることを示した。 デービスの塩素タンクが原理的に反応しえない種類へと変わっていたのである。
彼の測定は最初から正しかった。 ただ、 誰もが想定していたのとは別のものを測定していたのであり、 まさにそこに発見があった。
同じ年に彼は、 小柴昌俊(Masatoshi Koshiba)とともにノーベル賞を受けた。
その後の影響
デービスは2006年に亡くなった。 彼の実験は1968年から1994年まで続いた。 26年のあいだに、 彼は合わせておよそ2,000個のアルゴン原子を数えた。
ホームステーク鉱山の同じ坑道には、 今日DUNEの遠方検出器が造られつつある。 68,000 トンの液体アルゴンを用いるものである。 一人の男が原子を数えたその山は、 一世代のちに素粒子物理学の最大級の計画の一つを収めている。
しかしデービスの本当の遺産は一つの姿勢である。 描かれた像に収まらない結果を説明して片づけてしまうのではなく、 誤っていたのは測定ではなく像のほうだと明らかになるまで、 それを検証し続けるという姿勢である。
関連項目
- Homestake実験 — 彼の装置
- ジョン・バーコール — 予測
- 太陽ニュートリノ問題 — その所見
- 小柴昌俊 — 共同受賞者
出典
- R. Davis Jr., D. S. Harmer, K. C. Hoffman: Search for Neutrinos from the Sun, Physical Review Letters 20, 1205 (1968).
- ノーベル財団: ノーベル物理学賞2002年、選定理由とノーベル講演。